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Osutoria bungaku

Japan Austrian Literature Society

第二次世界大戦終結から70年が過ぎ、同時代文学の担い手の中心は、戦争とホロコーストの体験者から、彼らの子・孫の世代に移りつつある。C・カドゥフとU・ フェダーらが「戦後文学の終わり?」(2)と掲げるように、戦争との関わり方が大きく異なる複数の世代を前にして、「戦後」文学というくくりはもはや必ずしも有効ではない。「『自身では経験していない(ohne eigene Erfahrung)』若い世代の文学がナチズムとホロコーストに取り組む際の固有な諸条件」(3)を明ら かにすること、またそれらの条件に方向づけられる語りの新たな枠組...



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第二次世界大戦終結から70年が過ぎ、同時代文学の担い手の中心は、戦争とホロコーストの体験者から、彼らの子・孫の世代に移りつつある。C・カドゥフとU・ フェダーらが「戦後文学の終わり?」(2)と掲げるように、戦争との関わり方が大きく異なる複数の世代を前にして、「戦後」文学というくくりはもはや必ずしも有効ではない。「『自身では経験していない(ohne eigene Erfahrung)』若い世代の文学がナチズムとホロコーストに取り組む際の固有な諸条件」(3)を明ら かにすること、またそれらの条件に方向づけられる語りの新たな枠組みや方法を探ることは、現代のドイツ語圏文学・文化研究における中心的な課題の一つとなっている。 「自身では経験していない」災厄についてどのように語りうるか、という問いの射程は、過去の記憶の保持・継承といった観点だけでなく、同時代の、場合によってはほぼリアルタイムで「経験」しうる災厄にも及ぶ。メディア技術の発達した今日、戦争やテロ、自然災害など、地理的には隔たった地の出来事であっても、情報を得たりリアクションを発信したりすることはますます容易になっており、その際の言葉の多くは「自身では経験していない」立場からのものとなる。 二〇一一年三月に発生した東日本大震災の際にも、国の内外から多くの反応が寄せられたが、エルフリーデ・イェリネクの演劇『光のない』Kein Licht(二〇一一)もまた、震災と原発事故に対する遠隔地からの応答の一つである。本論ではこのテクストを例に、「自身では経験していない」災厄について語る方途の諸相について考察する。
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September 29
2018
bnewbold
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